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- 第186回 映画2作目の「深層海流」
- 『ポケモン』映画の2作目は、冒険活劇である。
- ピカピカ事件はあったものの、再開後の視聴率も悪くなく、『ミュウツーの逆襲』は、どんな内容であれ、そこそこヒットはするだろうというぐらいの期待はあった。
- が、現実は、予想をはるかに超えた大ヒットである。
- 予想外であり、これがポケモン本来の爽快な冒険活劇だったら、もっとヒットしただろうという見方もあり、いわゆる「お涙ちょうだいの泣かせ」がヒットの要因だという声もあった。
- 「自己存在」がテーマだったから、などというヒット理由の解釈などほとんどなかった。
- 世界に見せるアニメのテーマとして、「自己存在への問いかけ」を持ち出した僕自身、ここまで、欧米でヒットするとは思っていなかった。
- そもそも『ミュウツーの逆襲』のような重くて暗く爽快感のないアニメ脚本は、ピカピカ事件がなければ、上層部からクレームが続出したと思われる。
- だから、2作目は、本来の冒険活劇の爽快感を狙おうということになってしまった。
- 僕にしても、『ミュウツーの逆襲』の次回作に、「自己存在の問いかけ」などという自分自身にとっても重たいテーマの延長上のエピソードはきついというか、面倒というか……少なくとも、『ミュウツーの逆襲』のテーマの重さに耐えるために、医者に止められている酒を一升瓶30本、精神安定剤(市販のもの)数十箱を飲んでいたから、体力的にも限界だった。
- 余計なことだが、当時は、酒や薬の飲み方を自分で調整できていたから、脚本をああしよう、こうしよう、どうしようと、とっ散らかった考えを一つにまとめるために利用していたわけで、理性がなくなるほど泥酔していたわけではない。
- 僕は今でも、アルコール専門の精神科医から、本当のアルコール依存症か薬物依存者か、それともそれを装っているのか、よくわからない人間だといわれる。
- 酒をいくら飲んでいても、多少、おしゃべりがくどくなるが、あまり変な発想が生まれたことがない。
- ケンカもしないし、女性と飲んでも、いわゆるやましい考えを持ったり、酒の力で口説いたこともない。
- 女性を口説くときは、雰囲気つくりに多少の酒が入っていても本来はしらふである。
- 僕は自分が危ないなと自覚すると、酒も薬も止めることができるのである。いわゆる薬物が切れたときに起こる禁断症状もない。
- 普通、依存症患者は、酒や薬を止めたくても自分の力では止められない。そんな自分に絶望して自殺したり、本当に精神に異常をきたしてしまう人が多い。
- アルコール依存症の人の平均寿命は52歳だそうである。アルコール依存症の不安のある人は気をつけてください。
- アルコールは、禁止されている薬物と比べても最悪の毒物で、しかも公認されている。
- もうひとつ公認されている毒物にタバコがあるが、僕はこれをいくら止めようとしても止められない。
- だから、タバコ依存症であることは確かである。
- 余談が過ぎたが、依存症でなくても、困るのは、酒や安定剤(市販)を飲むと食欲がなくなるのである。
- 時折、栄養剤を飲むが、資料を調べたりものを考えたり原稿を書きだしたりすると、1日2日はポカリスエットだけで済ませてしまう時もある。
- そこに、酒や薬、タバコが加わると体力が持続するわけがない、
- 『ミュウツーの逆襲』のような脚本を2本も続けて書けば、この飽食の時代に餓死しかねない。
- だから、世界に通用するような冒険活劇のアクションも難しいとは思ったが、気分の転換にはなるなと思った。
- しかし、「自己存在の問いかけ」をテーマにした作品の2作目である。
- それなりのテーマがないと僕自身が落ち着かない。
- テーマはすぐにできた。
- 「自己存在」の後は、「それぞれの自己存在の共存」である。
- だが、それをどう冒険活劇にするか? しかも今回の主要な舞台は海である。
- すぐに頭に浮かんだのは、「深層海流」である。
- 深層海流は2000年かけて世界を一周する超(?)深海を流れている海流のことで、この海流の話をすると、僕でも新書本1冊ぐらいは書けるので、ここでの説明は省く。
- 興味のある方はインターネットで検索してください。
- 詳しく知りたければ専門書も一流の図書館ならあるはずだ。
- おおざっぱにいえば、世界の天候を支配し、栄養分に富み、地球の生命の源になったという説もある海流である。
- なぜ、この海流を僕が知っているかというと、ほぼ10年がかりで「永遠のフィレーナ」という滅亡させれた海洋民族の王家の末裔の女の子の小説を書いたから……あまりヒットしなかったが、全9巻中の1巻はアニメージュに連載され、それが文庫化され、10年がかりで9巻まで続いてしまい、ついでにビデオアニメやファミコンゲームにもなった。
- 海洋民族の国はローマ時代のカルタゴを意識した。貿易国でもあったその国は、言うまでもなく日本を意識したものだ。やがて、亡びるであろう国としてだが……。
- 彼女は、王家の身分を隠すため、男として育てられ剣闘士として育てられる。
- カルタゴは滅亡の時、ほとんどの国民が惨殺された。女も子供もだ。
- 生き残るとしたら、強靭な男の子として、奴隷である剣闘士として育てられ、見世物としての殺し合いショーをするしかなかった。
- 彼女の生と死はいつも背中合わせ、彼女自身、いつ死んでもいい、いや死んだほうがましだとすら思っていた。
- しかし、周りで死んでいく人々はなぜか遺言のように彼女に言う、「お前は生きろ」と。
- 死んでいく人々は、彼女の中に表現しようもない生命力を感じるのだ。
- しかし、本人は「いつ死んでもいい」と思っている。
- ただ、彼女の中には、幼児のころに見て、感じた海のイメージが鮮烈に残っていた。海は生命を生み出した。本人は気づいていないが、彼女の中にはその生命力が息づいていたのだ。
- この小説のラストは、彼女が「生きていくこと」を決意するところで終わる。
- いうまでもなく、この小説のテーマは「生きろ!」であり「海の持つ生命力」だ。
- その後「生きろ!」は、あるアニメ映画のキャッチコピーに使われた。そのアニメのテーマは「生きろ!」じゃなかっただけに、いささか参りましたけれどね。
- この小説を書くために、日本でいちばん海に近いJRの駅、小田原港のある早川に東京の渋谷から仕事場を引っ越し、結果20年も住むことになってしまった。
- この小説は9巻も続いたから、様々なテーマが顔を出す。
- しかし、基本は、地球という星を生命の溢れる星にした、海の持つ生命を生み出した力の話と、そのかけがえのない星で「生きよう」と決意する女性の話だ。
- この小説、「リボンの騎士」や「ベルばら」じゃああるまいし、女の子が男として育てられ生きていくのに無理がある、という批判もあった。
- しかし、生きる決意をし、生命を産み出す能力(?)がある主人公には、無理は承知でも、女性であってほしかった。
- 僕が見る海は女性である。どんなに嵐で荒れていても、海は、この小説では、命を産み出す母性でなければならなかった。
- もっとも、この主人公、「僕は女だから子供を産みたい」なんて一言も言わない。
- 「僕は生きる」、彼女が言うのは、その言葉だけだ。
- そんな小説を書くために、早川の海を毎日見ながら、かなり「海」について調べた。
- 想像される原始の海から現在の海の状況まで……。
- だから、「深層海流」の存在も小説の重要な要素として意識していた。
- しかし、小説に「深層海流」という言葉は出てこない。
- この小説の登場人物が「深層海流」を知るはずがない。生命を生み出す不思議な力が海の奥底にあると、感じるだけだ。
- でも、作家としての僕は「深層海流」の存在を考え続けて小説を書いていた。
- で、海を舞台にしたポケモン映画2作目で、「深層海流」そのものを描く機会がやってきたわけである。
- ラッキーなことに、そのころ、飲料水としての深層海流水が話題になり始めていた。
- 深層海流水を汲み上げられる場所は、その当時、日本では高知県しかなかった。
- ついでにいうなら、高知は妻の故郷だった。
- ボトル入りの深層海流水を取り寄せることにした。
- 小田原は箱根がすぐそばで、水はけっしてまずくはない。
- そんなところで、わざわざ高知から水を取り寄せている一家は、ずいぶん贅沢に思われたかもしれない。
- しかし、僕としては、川や貯水池の水ではなく、深層海流水を少なくとも1年間は飲み続けたかったのだ。
- 味? 僕の味覚では、小田原の水道の水とたいして変わりませんでしたよ。
- さらにラッキーだったのは、そのころ、NHKで、「深層海流」をテーマにしたドキュメントが放送された。
- 「ポケモン」のゲームメーカーのお偉いさんが、たまたまそれを見てとても興味を持った。
- 「深層海流」をテーマにポケモンが活躍する話……それで、ポケモン映画2作目のゴーサインがでた。
- しかし、深層海流ってなんだ? が、主なスタッフの受け取り方だった。
- しかたがないから、「深層海流水」のボトルを持って「これがその水ですから飲んでみてください」とやった。なんだか、「深層海流水」のセールスをしているような気分になったことを覚えている。
- だが、その時点で、どんな冒険活劇になるか決まっていなかった。
- 「共存」をメインテーマにしたいなどと言ったら、小難しいことを入れるなと言われそうだし、「共存」とは「なかよし」ということです、とでも言おうものなら、みんななかよしなんて話、面白い冒険活劇になるわけない、とも言われそうである。
- おまけに、新しいポケモンゲームが出ていないから、新しいポケモンも登場しようがない。
- 幻のポケモン、ミュウとミュウツーは映画1作目で出てしまった。
- さらに、ホウオウという幻のポケモンがTV版の1話でちらっと姿を見せるが、制作中のゲームだと、どこかのお寺に住んでいる地味目のポケモンに落ちぶれて(?)いるらしい。
- 主役級に使えるポケモンではない。
- しかし、ミュウやミュウツーほどではないが、二線級のポケモンが3匹残っていた。
- 他のポケモンと比べ、いささか強すぎて、ポケモントレーナーがゲットしたり、バトルさせたりするには手もあまりそうで、使い道がなくて残っていたのである。
- それが、ファイヤー、サンダー、フリーザーである。
- そろいもそろって凶暴そうで、三大怪獣激突のような話になりそうである。
- 今までの怪獣映画の例を見てもわかるが、強い怪獣が出てきて喧嘩を始めると、人間の出場所がなくなって怪獣プロレス映画になってしまう。
- お義理で自衛隊あたりが出てきても、何の役にも立たない。
- 冒険映画は、血の通った人間が冒険するから面白い、と僕は思っている。
- 金子監督版の「ガメラ」は、そこをうまく処理していたような気もするが、なんだか登場する美少女のかわいらしさにごまかされたような気がしないでもない。
- で、2作目の『ポケモン』映画だが、ピカチュウが活躍したって、三大怪獣相手では手に余るし、ピカチュウの活躍はTV版で見慣れていて新味がない。
- そのためには、三大怪獣以外のまったく別の性格を持った、しかし三大怪獣に引けを取らないポケモンが必要だと思った。
- それは、他の三大ポケモンと違い、人間とある程度かかわりを持てる存在でなければならない。
- かかわりを持てれば、人間が活躍できる場もできる。
- そんなポケモンの存在が必要だと思った……というより、最初から考えていたのである。
- それは、人間を含めた生命の源である「深層海流」を象徴するポケモンである。
- 「深層海流」では、水の流れだから絵にならない。
- 海流になにがしかの意志があったとしても、それを動きで表現するのは難しい。
- やはり、「深層海流」のシンボルになるポケモンが必要である。
- が、しかし。今までの『ポケモン』で、ゲームに登場しなかったポケモンはでてきていない。
- つまり、映画専用のオリジナルポケモンである。
- それが許されるのかどうか?
- 「この映画のためには、深層海流に住むオリジナルのポケモンを出したいんですけれど」
- 反対意見がどっと出ると思ったら、あっさりOKが出た。
- スタッフも制作上層部も映画2作目に耐えられるポケモンの不足が気になっていたようだ。
- そして、僕が書こうとする脚本の中の深層海流の意味も、もしかしたらピンときていなかったのかもしれない。
- だから、派手なオリジナルポケモンが必要だと感じたのかもしれない。
- 御前様が僕の意見に反論しなかったのは、この時がはじめてだったような気がする。
- 映画の短編を書く予定の脚本家の方が、あまりにあっさりオリジナルのポケモン登場が決まったのが意外だったようで、「よかったですね。これで、2作目の映画はできたようなものですね」といってくれたが、「そう簡単にいかないよ。問題はこれからだよ」と応えた。
- 僕は、四大怪獣ポケモンのプロレス映画を作る気はなかった。
- デザインも名前も決まっていないオリジナルポケモンは、とりあえず、X(エックス)と呼ばれた。
- したがって、ポスターの題名はしばらくの間「X爆誕」と書かれていた。
- つづく
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- 第187回 ルギア黙示録
- ポケモン映画『ミュウツーの逆襲』の予想以上のヒットで、2作目は当然ヒットすることが期待されて作られることになってしまった。
- そして、生命の源という仮説を持つ深層海流を象徴する映画独自のポケモンX(エックス)という当初ゲームにいなかった……後にルギアという名前がつけられる……を、登場させることも了解された。
- ただし、2作目に求められるのは『ミュウツーの逆襲』の持つ「自己存在」などというしち面倒くさく隠れテーマを感じさせない爽快な冒険活劇である。
- ところで、『ミュウツーの逆襲』のテーマ自体も、終わったわけではない。
- ミュウツー自身が、「自己存在」を自覚し、文字どおり「ミュウツー!我ハココニ存リ」と確信できた時に終わることのできるテーマである。
- だが、いちおう『ミュウツーの逆襲』で「自己存在への問いかけ」は終わった。
- 次にくるテーマは、それぞれが持っている「自己存在」が共存できるかどうかである。
- 映画2作目がいくら爽快な冒険活劇だとしても、前作で提示したテーマを忘れて、能天気な活劇にすぎないとしたら、前作の存在が孤立したものになってしまう。
- 映画のシリーズとして、前作の持つテーマを全く無視したものにはできないと僕は思った。
- 第183回のコラムで、「ミュウツーの誕生」のプロットをお読みになった方は、プロットで、「ミー」と呼ばれていたクローンの少女の名が、脚本では「アイ」に変わっていることに気がついた方もいると思う。
- 言うまでもなく、英語の「私」……I・MY・MEのIからMEへの変更である。
- ついでだがミーは僕の娘の名・三穂の略称で、いつもは「ミー」と呼んでいる。
- だから、「ミュウツーの誕生」のプロット段階では、ミーという名に極めて気楽にしたのだが、脚本を書いているうちに、アイとミーとでは、所有格である「マイ」はともかく、語感の持つ自意識に差があるような気がした。
- 自己存在を主張をするときに、ミーのほうが、アイより語感が強い気がしたのだ。
- 「ミュウツーの誕生」の少女は、消えていく運命のはかない存在である。
- ミーよりアイの名が似つかわしい気がして、脚本化の時に変えたのである。
- ミーという名を使う少女は、他で登場させようと思った。
- ミーは映画版3作目――実は3作目のエピソードにするつもりはなかったが、結果的には3作目の映画になった――『結晶搭の帝王』の主役格の少女の名前にした。
- つまり、「ミュウツーの誕生」の脚本を書いている時に、『結晶搭の帝王』のプロットができ、ミーは「結晶搭の帝王」の少女の名にしようと思ったのだ。
- 消えていくはかない運命の「ミュウツーの誕生」のアイは、『結晶搭の帝王』のミーでもある。
- アイとミーの違いは、「自己存在」への意識の違いである。
- ミーはアイよりも「自己存在」への執着が強いのだ。
- つまり、『ミュウツー』と『ルギア爆誕』と『結晶搭の帝王』は、「自己存在」というテーマでつながっている……というより、つながってしまったのである。
- さらに言えば、娘を持つ父親というものの「娘に対する自己存在」が『結晶搭の帝王』のほとんどメインテーマである。
- これに、アニメスペシャルの「ミュウツー!我ハココ二存リ」を加えると、あきれるほど僕の書いた脚本は「自己存在」にこだわっている。
- あきれるほどと書いたのは、脚本を書いた本人は、それほど強く意識的に表現するつもりはなかったからである。
- あとで、本人も気がついたのである。
- で、ポケモン以外の他の作品も、後で見返すと、ほとんどが「自己存在」にこだわっている。
- 露骨なほどこだわっている。
- 自分で自分にあきれるどころか、いささか自分が嫌になる。
- で、『ルギア爆誕』の絵本版には、あとがきに表向きこんなことを書いている。
- × ×
- ポケモンの劇場版第2編は、昔、懐かしい冒険活劇を目標に作られました。
- 目まぐるしく駆けずり回る登場人物を何も考えずにあれよあれよと見ているうちにエンドマークが来てしまえばそれでいい映画です。
- でも、いくら冒険活劇とは言え、前作『ミュウツーの逆襲』は、「私は誰だ!」という自己存在の問いかけがテーマになっていました。
- 今回の作品にも、それに対する答えのようなものが、裏の裏の奥でかすかに匂っているかもしれません。
- 「私は誰だ?……」と聞かれたら「僕は僕だ。ほかの誰でもない僕だ」
- ……ということ。ポケモン・ファイター達の、存在のバランス(共存)が崩されることで世界の破壊がはじまり、それぞれがそれぞれの自分(自己存在)に戻ったことで世界は元に戻ります。
- この世界は音楽のシンフォニーのようなものかもしれません。自分が、自分という名の楽器を、無理せずに精いっぱい演奏し続けるかぎり、あなたの音楽は壊れもしないし、周りの世界も壊れず調和している。
- だから、映画の最後のほうでサトシのママがサトシに言った……。
- 「世界を救うなんて命がけでする事じゃない。あなたはあなた……他の誰でもない。たった一人のあなたなのだから、自分を大切にして、あなたはあなたのやりたいことを目指しなさい」
- この少し非常識に聞こえる台詞のことを、親子のみなさんでちょっぴりはなしあっていただけると、このアニメは他の映画でない今の時代の冒険映画としての存在価値があるのかもしれません。
- × ×
- 何事も、親や周囲の環境が子供の生き方を決めてしまう。子供が子供らしい夢を持てず、部屋に引きこもり、仮想の自己満足にすぎないゲームにひたり、他者との対話は相手の顔の見えない携帯電話の時代。自分のやりたいことを目指し、それがそのままの形で周囲と共存し、その世界は音楽のシンフォニーのように調和する。
- それが、本来の世界。
- 実際、この作品の脚本には音楽が重要な意味を持つように意識的に描き、世界の自然の調和を守る深層海流のシンボルXというポケモンが登場し、崩れかけた調和を元に戻そうとする。そういう脚本になっている。
- 確かにテーマはそれでいい。
- でも、これは、いささか、表向きのきれいごとのテーマでもある。
- というのも、それぞれの自己存在のバランスのよい共存を、首藤剛志という脚本家はあんまり信じてはいないのですね。
- このエピソード、理想的なストーリーの展開としては、世界の共存を崩す強力な悪役が登場して、世界のそれぞれの自己存在が持てる力を出し合って悪を倒し、世界を守る。
- ところが、僕の脚本には、そんな悪役は出てこない。
- この映画では、ジラルダンというコレクターが登場する。
- この個性的な自分のやりたいことをやっている人物は、映画では、世界を破滅に導くきっかけを作ってしまうただの悪役に見える。
- しかし、脚本ではそうではない。
- 偏執的なコレクターであり、なにもポケモンだけを集めているだけではない。
- いろいろなお宝を集めていて、それをそのまま自分のものにして、いい気持ちになっている普通のコレクターではない。
- 集めたお宝……それは別に世間がお宝と認めているものとは限らない……自分にとって価値のあるものを、そのままではなく自分の好みに変えてしまいたいという変な人物なのだ。
- 普通の世界で価値のあるものを、自分にとっての価値のあるものに変えたい自己存在意識のいびつな人物。
- けして、悪人ではない。世界が滅びようが滅びまいが、自己の世界を作り出しその世界の中で陶酔したい人物なのだ。
- たとえば、ミロのビーナス像には手がない。しかし、ジラルダンは、手のあるビーナスが見たい。
- モナリザの絵の謎の微笑……ジラルダンは本当に、ふふふと笑うモナリザが見たいのだ。
- 常識的な価値観と違う自意識をもっている……それが彼の自己存在。
- こんな人間は……実際にいる。
- というより、すべての人間の中にそんな部分がある。
- ミュウツーがハムレット的なら、ジラルダンはいびつなドンキホーテといっていい。
- こんな人間の声を演技するには、ミュウツーの声、市村氏に匹敵する演技者でなければ困る。
- いるんですよね、そういう舞台俳優の方が……。
- 鹿賀丈史氏という方。
- 市村氏が「オペラ座の怪人」なら、鹿賀氏は「レ・ミゼラブル」「ジキルとハイド」。
- ご本人同士はどうかしらないが、周囲から名優としてライバル視されるし、また、演技を競い合うように、よく同じ舞台で共演する。
- で、どっちも負けない。しっかり、自分の役を立たせてしまう。
- その鹿賀氏がジラルダン役だった。
- つまり、脚本でのジラルダンは鹿賀氏が演じるだけの必要性のある役だったのだ。
- しかし、映画にはジラルダンの見せ場はほとんどない。
- 世界破壊のためのただのご都合主義の悪役にしか見えない。
- 脚本にあったジラルダンの見せ場シーンがカットされ、その分、派手なアクション場面がふえている。
- 試写会の時に、総監督が呟いていた。
- 「あと10分、上映時間が長ければ……」
- あるプロデューサーが直ちに答えた。
- 「それはダメです。上映時間は増やせません」
- その10分に総監督は何を入れるつもりだったのか。
- それがジラルダンのシーンだったら、『ルギア爆誕』の印象はストレートな軽いアクションアニメではなく、かなり屈折したものになったかもしれない。
- 折角、鹿賀丈史氏を起用しながら、とてももったいないと思う。
- もっとも、「上映時間に収まらない脚本を書いたお前が悪い」といわれれば、「大した見せ場にもならない余計なアクションシーンを増やした方がどうかしている」と答えたくなるが……。
- さらに、『ルギア爆誕』をご覧になった方は、覚えていらっしゃるかもしれないが、ラスト付近に、全てを失ったかに見えたジラルダンが、なぜかミュウのポケモンカードを見ながら不敵な微笑を洩らすシーンは残っていて、この微笑の意味がわかるのだろうか?
- さらに『ルギア爆誕』には、脚本家の責任として、大失敗したところが1ヶ所。別の要因で、僕個人がいまだに首をひねっているところが少なくとも2ヶ所ある。
- 2作目の最初のプロット会議の時、御前様とあだ名される方が言った。
- 「『ミュウツーの逆襲』のヒットは驚いた。だから2作目に関しては、内容に関して口は出しません。ただ、題名にこの言葉をつけてほしい」
- 御前様はわざわざ白板に文字を書いた。
- 「爆誕」
- 辞書にものっていないおそらく御前様が作った造語だろう。
- 2作目のストーリーでは、なにも誕生していない。
- まして、「爆誕」といえば、爆発で何かが誕生するということだろう。
- この造語には驚いた。いや、ひどく抵抗があった。
- しかし、御前様や多くのスタッフには、格好のいい派手なタイトルに思えたのかもしれない。
- 世代の差なのか? まあ、タイトルに関しては、脚本家が口を出して会議を混乱させることもないと思い、黙っていた。
- ちなみに、アメリカでは『ルギア黙示録』という題名で公開されたと記憶している。
- 「爆誕」よりはセンスがいいし、2作目の内容に似合っている。
- 海外で『ルギア黙示録』というタイトルで公開されたなら、まあいいか……。
- 僕は、いまも『ルギア爆誕』については、「ポケモン映画の2作目」といい、めったに「爆誕」とは言わない。
- その理由は次回で……。
- つづく
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